耳をすませば

動機:A 基準:B 評価:B
これ、私は柊あおいさんの原作から入ったから、映画化の話が発表されたときには「なぜ今さら『耳をすませば』?」と思ったのを覚えている。
原作は少女漫画誌『りぼん』に連載されていたのだけれど、わずか4話で終わってしまっていた。
原作の柊あおいさんは『耳をすませば』の前作の『星の瞳のシルエット』、『耳をすませば』の次作の『銀色のハーモニー』がそれぞれ大人気となったためにいよいよ『耳をすませば』が埋もれてしまっていたので、ジブリもえらいところに目をつけるものだと当時思った。


で、いざ映画になってみたら、こりゃ全然違うお話だ、と。
登場人物はジブリ絵だし、雫の家族は当たりが悪くなっているし。
原作の優しいお姉ちゃんはどこに行ったんですか。
映画版で下着姿のお姉ちゃんを見せられたって、あの原作のお姉ちゃんの笑顔にかなうはずがないでしょう。
そしてお姉ちゃんの彼氏であり聖司君の兄である、ちょっと変わった天沢航司はどこに行ったんですか。
バッサリ切られちゃってるじゃないかよう。
すらりとした黒猫のルナとムーンはどこに行っちゃったんですか。
ルナとムーンが原作のような姿だったから、バロンがああいう姿である事がすんなり入ってきたはずなのに。
原作のほうはカントリーロードも出てこなきゃバイオリンも出てこない。
イタリアになんて行かない。


ただ、野球部の杉村君が左ききだって事は変わらない。
とは言え、原作の柊あおいさんは利き手の左右がぶれる事がしばしばあって、ページごとに左手で持ったり右手で持ったりというのはどちらが絵の構図、見栄えが良いかだけで判断しているような感があり、さらに柊あおいさんの他の漫画で野球をしているシーンが描かれる事がほとんどない事からも、たまたま右手にグローブをはめて描いたのを映画で踏襲しただけなのかもしれない。
原作では背番号は描かれていないため、映画版で適当に番号をふっただけなのかもしれないけど、そのせいで『左きき三塁手』になっちゃった。
この映画は1995年公開だったけど私が初めて見たのは1997年だったはず。
1996年の高校野球夏の甲子園で、弘前実業の大湯君が左きき三塁手として有名になったので、初めて『耳をすませば』を見た時に「おお、ここにも左きき三塁手が!」と思ったものだ。
ただ、よく見ると杉村君のユニフォームは練習用なので、たとえばクラス順とか五十音順とかで適当に番号をふられただけかも知れなくて、もしそうなら必ずしも三塁手という事ではなくなってしまうのだけど。
まあ左きき三塁手の話はこれぐらいにして、内容内容。


なんだか、特に前半は誰かが不機嫌である描写が多くてあんまりいい印象ありません。
で、夢に向かうとか家族の反対とかの話も私はあんまり重きを置かない。
やっぱり恋ですよ恋。
こっちは多分相手が私の事を好きなんだろうなーと何となく思っていて、相手は多分私が相手の事を好きなんだろうなーと何となく思っていて、周りの人はあの二人がお互いの事を好きなんだろうなーと何となく思っている、その上で好きだって気持ちを何となく出したり出さなかったりしている微妙な感じが素晴らしい。
ここですよここ。
キャッキャキャッキャ言いながら見るのは楽しいのう。
だからこれだけ見せてくれれば、あるいはこれを主題に持ってきてくれればもっといいんだけど。


耳をすませば』をもう一度見たいか、と聞かれると、もちろん何度でも見るんだろうけど、最初から最後まで全部見るとなるともはや苦痛とさえ思えるシーンがあるわけで。
特にお父さんが出てくるシーンなんかはもっとどうにかならなかったものなんだろうかと思ってしまう。
演技は、うーん、ちょっと、どうにかならんもんだったのかなあ。
立花隆って、声優どころか役者でもない。
こんな所で作品の質を落としてどうするんですかジブリさん。
そういえば、雫はあの『二人はプリキュア』の美墨なぎさキュアブラック)役の本名陽子さんなのよね。
当時16歳で、歌声も演技も中学生としてまさにそれらしい(あくまでジブリアニメとしては)。
それはそうと、お父さんも、お母さんも、お姉ちゃんも、なんだか『おもひでぽろぽろ』の両親やお姉ちゃんたちの悪い部分だけ抜き出したような家族なんだもん。


まあ、私が評価を下す基準は『好きな点がどれだけあるか、好きな度合いはどれくらいか』というのが大半で、マイナスポイントがあってもあんまりマイナスにはしないんですけどね。
だから、今挙げた点があったとしても『耳をすませば』を好きですかと聞かれたら好きですと答えます。
結局、「あなたにとって『耳をすませば』とはどんなアニメですか」と聞かれたら、「左きき三塁手が登場するアニメです」と答えます。えー。